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映画『シン・レッド・ライン』(2) 〜それぞれの愛の表現を感じる見方〜 公開:1999年日本公開、テレンス・マリック監督 出演:ショーン・ペン、ジョン・トラボルタ、ニック・ノルティ 1999年ベネチア国際映画祭グランプリ受賞作品 推薦者:橋本六穂(「第1回原稿募集企画」最優秀賞受賞者)
■「シン・レッド・ライン」 それぞれの愛の表現を感じる見方 私も含め、殆どの人にとってテレンス・マリック監督は、スピルバグーグが絶賛することでその名を知ったのではないでしょうか。監督自体が、哲学的難解な存在で、あえて26年ぶりにメガホンを取りその立場を主人公に置き換えているようです。 軍隊から逃亡し、始めは半人前として扱われる二等兵ウィットが一度、軍隊からの落ちこぼれることで、軍隊に属していながら、その意思は外にあるという視点から、ガダルカナル島攻防戦におけるライフル中隊「チャーリーC中隊」を描いています。 難解と言われるこの作品は、登場人物に感情移入することで、明確になります。 戦場下という生死がかかっているさなかのパラダイスとは何でしょうか? 観客という以前に私達はまず、日本人であり、映画=「ストーリー」という視点で見ると明らかに映画に登場する日本軍は、私達とは世代の違う別次元の存在として見てしまいますが、ここではあえて、サッカーで日本を応援する気持ちで日本人兵士達を見ることをお勧めします。 一方「主演」の米軍兵士達は、「個人」として描かれていますので、感情移入はしやすいです。日本守備隊が立てこもる丘210高地を、出世のために占領したいトール中佐。自分の欲望を達成するために、兵士の犠牲に意を解さない態度は、会社の上司を思い起こします。作品中の「悪玉」にしたくなりますが、もう一歩踏み込んで考えて見ますと、誰にでもある究極のエゴという自己愛を垣間見ます。 ウィットを批判しながらも、理解し前線に飛び出し他の兵士に愛情を示すウェルシュ曹長。「勲章ものだ」と言われた時にそれを拒否することで、他者への愛情が本物であることがわかります。最後にトール中佐と対立し解任されるスタロス大尉。理想の上司として、兵士から愛される存在で、こんな上司だったらと、トール中佐と対比し「善玉」としたくなりますが、中間管理職としては、目的を達成し得えず、目的の達成か兵士への愛情かでゆれる人物です。 ベル二等兵は愛する妻を故郷に残し、愛し合った残像(幻想的に妻との関係を描いているシーンが美しい)の中に生きる男。送られ来た手紙で妻が他の男へ走ってしまったことを知り悲しみます。 このように、誰もが人生で味わうようなエゴイズムと「愛」を生死の狭間で、さまざま形で見せてくれます。 やがて、日本軍陣地にたどりつき、まのあたりにするのは、病気と飢餓(ガダルカナル島は、別名飢餓の島、餓島と言われていたそうです。)でやせほそった日本人兵士達。せっかく日本人を扱っているという作品(第二次大戦の悪役ドイツ、イタリアでない)なのですから、私達は日本人であるとういう特権に感謝し大いに直面しましょう。 日本軍兵士の陣地の様子は、監督の愛情フレームから見た視点で誇張した再現でない、解釈表現でしょう。負けている姿の日本人を見るのは避けたいものですが、ここで、よその外国日本人として見ますと、私達はせっかくの作品の意図を見逃すことになりかねません。その上でも、感情移入しながら、セリフを味わって下さい。「おまえはもうすぐ死ぬ」「貴様も、貴様も、いつか死ぬんだよ!。」 作戦に成功したC中隊は、ある日斥候隊を出発させます。指揮官の人選ミスに気づいたウィットは、志願して斥候隊に加わることになります。仲間の判断ミスから自らがおとりになり、日本兵一団をまこうとしますが囲まれてしまいます。「戦友を殺したのはおまえか?」悲しみと怒りをのせながら日本兵が繰り返し言います。銃を向けた瞬間ウィットは撃たれます。詰問した日本兵にも友情を育んだ戦友がいた筈です。 戦友の仇として撃たれ、仲間の囮として撃たれる。双方の愛の結果として、ウィットは死んで生きます。それぞれの立場からの感情移入する見方で、この作品の本質が愛であることがよく理解できます。 未見の方にはぜひお勧めの作品です。 |
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