「平尾監督に学ぶスポーツ教育の本質と可能性」
記者:張替一彰(当会論説委員長)
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■日本のアキレス腱であるゴール型球技 平尾誠二。伏見工業高校で全国大会優勝。同志社大学では大学選手権3連勝。1年間の英国留学を経て86年に神戸製鋼所入社。89年から日本選手権7連覇。97年2月に34歳の若さでラグビー日本代表監督に就任という輝かしい経歴を持つラグビー界のスーパースターである。彼は卓越したラグビー理論とともに、これまでの日本のスポーツ界の伝統的指導方法であった怒鳴られながら根性で耐えぬくといった上意下達式の強権発動型の育成システムに大いなる疑問を呈している。彼の講演を聞く機会もあり、スポーツ教育の本質とは何かについて考えてみたい。球技スポーツを三つにわけると、ベースボール型(野球、ソフトボール)、ネット型(テニス、バレーボールなど)、ゴール型(ラグビー、サッカー、バスケットなど)になるといわれるが、日本においては、最後のゴール型のスポーツにおいて世界的に強いものは一つもないのが現状である(サッカーは善戦しているが、それでも世界ランクは50位を下回っている状況だったと思う。)。それはなぜか。色々な理由があるとは思うが、重要なポイントは時々刻々と変化する集団プレーの中において、もっとも必要とされる個人の個人の瞬時の判断力が弱いからであると考えられる。 ゴール型で必要とされるのは、個々人の超人的な才能ではない。平尾氏はセリエAで活躍している中田を例に挙げる。中田は、体が大きいわけではなく、足の速さもキック力も人並みだが、イメージに基づいた判断力がすばらしいからこそあれだけのプレーができるという。チーム作りのポイントは、各メンバーがそれぞれイメージを持ち、それをいかにチームで活かせるかを、考えられるようにすることである。 全体の動きの中で、次の行動パターンを予測し、自分の果たすべき役割を認識し、瞬時に行動に移せることが大切である。選手が自分達のプレーを主体的にイメージせず、単なる指示待ち族である限り、ゴール型球技で世界レベルに到達することはありえない。 ■旧石器時代の日本のコーチング しかしながら、日本でのコーチング手法では、いまだに練習時間やそのハードさのみが強調されやすい。とにかく、頭をからっぽにして、コーチや監督の指示通りに動くような反復練習ばかりを行なう。そして、失敗をすると、その原因を教えるのではなく、「精神が弛んでいる!!」とのお決まりの言葉で、グランド10周の罰が下されるのである。かくして、意味のない疲労の中で、思考停止状態となり、自ら判断しない選手が誕生してしまうことになる。 例えば素振り100回の練習をやるとして、指示にしたがうだけの人間なら、頭にあるのは残りの回数のみである。しかし頭にイメージが描ける人間なら、本番を想定して具体的な球筋を思い浮かべながらスイングできるので、同じ練習でも質が全く異なるであろう。 上意下達のコーチングのもとにいる選手は、指示通りに動く事のみに関心があるため、できるだけミスをしないことを覚えてしまう。その結果、得てして、名門校出身の選手はのびないという。あまりにミスを恐れるあまりに、自由でのびのびとしたプレーができなからである。コーチングの本質は、ミスを叱ることではない。トライアンドエラーを繰り返させながら、それぞれの個性に応じた創造性を開花させることにある。無論、活を入れるために厳しく叱ることは大変、重要なことであろう。 ■オンリーワンの思想 また、チームの個々のメンバーが考えて行動できるようになるためには、それぞれがチームにとって「オンリーワン」(ナンバーワンではないのがポイント)となれるようなチーム作りが必要という。それぞれのポジションについたメンバーが楽しくなければチーム全体はうまくいかない。チームに必要なのはプレーヤーであって選手ではない。プレーヤーは「遊ぶ人」であり、楽しむ心があるからイメージが豊富。一方、選手は「選ばれて働く人」であり、ねばならないというプレッシャーが常にかかっている。 プレーヤーと選手の違いは、つきつめれば、スポーツと体育の思想の違いでもある。チームに必要なのはプレーヤーであって選手ではないというのが平尾氏の考え方であった。その意味するところは、プレーヤーは「遊ぶ人」であり、楽しむ心があるからイメージが豊富となるが、選手は「選ばれて働く人」であり、ねばならないというプレッシャーが常にかかってしまうことを意味している。 もともと、選手という概念のベースには、富国強兵を背景とした体育思想がある。弱卒を厳しい訓練で強兵に育て上げ、その中から生抜きのエリート部隊を養成することがその目的である。そこで求められるのは「気合」であり、協調性や忍耐力である。まさしく、思考を停止し、精神主義で集団に滅私奉公することが求められる。 一方、スポーツで求められるのは「理解」であり、創造性(イメージ)や主体性である。前者は普段の生活の中でたくさん存在するし体験もできる。むしろ、これから学び、身につけなければならないのは後者で、スポーツ教育はその格好の場として考えられる。 ■スポーツ教育の効能 平尾氏の話しを聞いていると、スポーツ教育で身につけることができる素養が、日本の民族性としての問題視されるムラ社会意識を破る原動力になるのではないかとも思われる。プレーヤー本人やチームにとっても大切なオンリーワンとしての役割の自覚。さらにはチームとしての目的意識。これらは、組織の目的が曖昧であり、各員の役割も十分に未分化していないムラ社会意識を変革する力を秘めている。伝統を重んじ、前例を踏襲するムラ社会意識は大いなる創造性の欠如をもたらすものであるが、スポーツの世界では、全く逆の世界が展開されている。ボールをハンドリングしている間は、誰も直接的に助けることはできない。基本的には、自分だけの判断で瞬時に行動を決めなければならない。また、その判断の成否もすぐに結果としてあらわれるのである。創造力、主体性、判断力が嫌でも鍛えられる。 そして、スポーツにおいても、自分が話し、相手が納得の上で行動してはじめてコミュニケーションは成立する。たとえ話す情報(知識)はたくさん持っていても、イメージ(目的意識)がないとそれを使うタイミングや場所がわからず、効果がない。むしろ多くの情報は、かえって迷いを生むだけの結果にもなりかねない。また、話すことが相手に具体的な「絵」として頭に描けることがインパクトにもつながるという。この能力はビジネスをすすめる上で非常に重要とされるプレゼン能力に通ずるところもある。 ■スポーツ界でも官主導からの脱却を!! スポーツ教育で身につけることができる創造力、主体性、判断力、コミュニケーション能力、プレゼン能力。これらはグローバルレベルで見て、日本人が劣っている部類の能力ではないだろうか。今こそ、官主導の体育の発想から個性を大切にするスポーツ教育への発想の転換が求められている。 体育の富国強兵の発想は、組織において、個の軽視、犠牲を生み出す事がある。例えば、女子マラソンの五輪代表選考などにおいては、たとえ、最高記録を持っていても、選ばれないケースがある。バルセロナの松野明美しかり、アトランタの鈴木博美しかりである。たしかに、チームバランスとして、安定した選手を入れたいという陸連の戦略は理解できるし、結果として正しいこともあったかもしれない。しかしながら、最高の記録を出したとしても、五輪に出場できないとすれば、選手のやる気は大いに減退するのではないだろうか?。水泳の千葉すずやサッカーのトルシェ監督の問題も同じようなケースではある。 協会などの組織の裁量といった不透明な選考基準をなくし、個人の努力を公平に認めるオープンな選考、評価基準が必要だと思われる。ルールなくして、スポーツは成立しない。同じく、スポーツ教育においても、然りである。個のやる気を大切にし、育て、評価していくカルチャーこそが、今後の日本のスポーツ界の発展につながると思われる。ひいては、日本におけるムラ社会意識の変革を起こす起爆剤となろう。 |
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